函館山七福神めぐり
2015.6.6

 数週間前、はこだて検定上級合格者の会の北条さんから電話が来た。6月6日に函館山七福神めぐりというのをやるのだが、人手が足りないので手伝ってほしいという内容だった。

 自分は上級合格者ではあるが、上級合格者の会には入っていない。でも何か役に立つのならお手伝いしようと思い快諾した。
 今年の検定のための勉強になるかもしれないし。

 今日、函館七福神をめぐるに際して、自分でも七福神の事や函館の神社や寺について色々調べた。

 七福神めぐりというのは、弁財天、毘沙門天、大黒天、福禄寿、恵比須、布袋尊、寿老人という福の神が神社とかに祀られていて、それを巡るという、室町時代から行われている庶民の楽しみというか遊びというか暇つぶしと言うか・・・。もちろん何か願い事があって真剣にめぐっている人も多いのかもしれないが、そうやって巡って拝んで御利益を得ようというものだ。

 しかしながら調べていると、これがとても複雑で頭がゴチャゴチャになる。

 まず、この七柱の神様たちだが、インドの神様、中国の神様、日本の神様とごちゃまぜ。
 そして、一つひとつの神様も、インドから中国、日本に伝わってくる過程で性格が変わる。立場も変わる。これでまた頭がゴチャゴチャ。

 更に、神様たちの御利益や性格を調べていると、どうしてもヒンドゥー教や仏教の事を学ばなくてはわからなかったりする部分もあるのだ。更に仏教でも大乗仏教があったり、日本の神話の事なども絡んでくる。

 自分は今回、お手伝いで参加することになったので、もし質問されたら答えられるようにと思い色々勉強したのだが、あまり細かい事を考えずに、どの神様がどんな御利益なのか位を知って巡る方が良さそうだ。
(結局最後まで誰からも質問されなかった・・・)

 

 今年は母もはこだて検定を受けると言い、今一生懸命勉強している最中で、母も参加してみたいと言うので、妻に送ってもらう事にした。
 自分は案内係をしてほしいと言われたので、12時20分までに出発地点に集合しなければならなかったのだが、一般参加の集合時間は1時だった。

 妻と母と3人で昼食を食べてから出発地点に行く事になった。

 北海道第一歩の地碑があるところの近く、しろくまというレストランで食べてから行こうという事になった。

北海道第一歩の地があるところ
奥の建物がレストラン

 ここの場所には東浜桟橋と言うのがあり、その昔、連絡船乗り場だった場所だ。

東浜桟橋

 当時は水深が浅く、連絡船が接岸できなくて、沖に停泊した連絡船に艀を使って乗り降りしていたらしい。
 桟橋の向こうには連絡船摩周丸が見える。ちょうどブルームーンという船が観光のため出発したところだった。

 レストランに入ると、白クマの剥製みたいのが飾られていた。けっこう大きくて迫力があった。

白クマの剥製

 レストランの中から見える景色がとても綺麗で、天候も良かったのでとても気持ちがいい感じだった。

レストランの中から見た景色

 1000円位のランチプレートを頼んだ。

ランチプレート。これにドリンクとミニデザート(アイス)付き

 食事をしている時に、さっき出航したブルームーンが帰ってきた。ブルームーンについては検定で時々問題が出る。そういえば去年自分が受けた検定でも問題が出されていたが、その問題には間違って答えてしまった事を思い出した。

帰ってきたブルームーン

 食事を終え、出発地点の住三吉神社へ向かった。はこだて検定上級合格者の会の方たちは既に集まっていて、自分は一般参加者のみなさんが住三吉神社へ行くときの誘導係として、電車の終点である谷地頭と住三吉神社の間に立って道案内をすることになった。が、ほとんど案内することは無かった。多くの人は違う道を通って住三吉神社へ向かったか、最初から場所がわかっている人ばかりだったようだ。
 その頃対馬先生も登場した。

 ちょうど自分がいた場所の近くに黄色い消火栓があった。暇だったので何となく撮影しておいたこの消火栓、函館型三方式地上式消火栓と言うらしい。この黄色い色って函館特有のものなんだって。

 昭和9年に起こった大火では、防火用水槽があまり役に立たなかったらしい。マンホールみたいなフタを開けて水を吸いだすためには専用の器具が必要だったらしく、効率的に消火作業が出来なかったのだ。更に函館は冬に雪が積もるため、もし雪が積もってたらどこに防火用水槽があるかもわからなくなるし、場所が分かったとしてもふたを開けるためには除雪をしたり凍っていたら溶かすか氷割をしてふたを開けなければならない。

 そんなこともあり、昭和9年の大火後にアメリカの消火栓を参考にして作られるようになったのがこの消火栓。アメリカの消火栓が黄色だったので、そのまま真似て作られたそうで、函館にある消火栓は黄色いものが多い。函館以外では赤とかなのかな?

函館型三方式地上式消火栓


ここで道案内係りをしたが、ほとんど誰にも聞かれなかった・・・。

 1時になり、自分も対馬先生と出発地点の住三吉神社へ向かった。この鳥居がある道路脇は桜の木が多く、とても綺麗なのだそうだが、もう桜の時期も終わっているので、その綺麗な姿は見られなかった。でも葉っぱの緑はとてもさわやかだった。

住三吉神社へ向かう道

 住三吉神社に到着すると、結構な人が集まっていた。自分も初めて来たのでちょっと見学してみたら、狛犬みたいのがいたんだけど、どうも変な顔だった。

変な顔の狛犬?にやけてるみたい


住三吉神社

 この神社は鎌倉時代に創建されたと伝えられているが、本当だろうか?
 1700年代後半に神社が再建されたという記録はあるらしい。
 もともと、住吉神社というのと三吉神社というのがあったのだが、1934年(昭和9年)の函館大火で住吉神社が焼けてしまい、この場所にあった三吉神社に仮殿を建立し、その後、三吉神社と住吉神社が合併合祀して住三吉神社と改称した歴史がある。

 祭神は
 上筒之男大神(うわつつのおのおおかみ)
 中筒之男大神(なかつつのおのおおかみ)
 底筒之男大神(そこつつのおのおおかみ)

 これらは海の表面、中ほど、海底部それぞれの神である。

 更に三吉大神(みよしのおおかみ)
 これは力や勝負を司る神。

 大己貴神(おおむなちのかみ)
 これは大国主命(おおくにぬしのみこと)の異称で大黒様の事でもある。

 少彦名神(すくなひこなのかみ)
 これは大国主命と共に全国を回って国土を開発した神。

 大己貴神と少彦名神は医療の神である。

 で、大国主命って何よ?って思うのだが、これは神話に出てくるイザナギノミコトとイザナミノミコトの孫になるようで、

イザナギノミコトとイザナミノミコトの子供たちは天照大神(アマテラスオオミカミ)とか月読命(ツキヨミノミコト)とか素戔嗚尊(スサノオノミコト)など。

 このスサノオノミコトの子供のうちの一柱が大国主命であり、日本国土を作ったとされているようだ。

 更に後に出てくる七福神の一柱である大黒天の大黒と大国主命の大国の読みが同じなので、合体して考えられてもいるという。ちょっとむちゃくちゃな解釈で混乱する。

 そのほかにもいくつかの神が祭神として祀られていて、合併合祀したせいでこんなに多くの神様を祀ってるのかもしれない。

 そして七福神としては寿老人を祀っている。

寿老人

 寿老人は中国の道教の神様で、南極老人星の化身とも言われている。このあと出てくる七福神の一柱である福禄寿と同一視されることもあり、その場合には吉祥天などの神様が寿老人の代わりに七福神の一柱になることもあるという。

 酒が好きで頭が長く、長く白いひげが生えていて背が低く、90センチくらいしかない神様らしい。
 玄鹿(げんろく)と言われる長寿の象徴である牡鹿を従えている。
 不死の霊薬を含んでいるヒョウタンや巻物をつけた杖を持っている。

 今回の七福神巡りでの最初の神様である寿老人を見たところで、いよいよ出発となり、主催者のはこだて検定上級合格者の会、北条さんより注意事項などの説明を受け、みんなで出発した。

北条さんから注意事項の説明を受ける一般参加者たち

 住三吉神社から次の天祐寺へは約20分位だという。みんな元気に歩いて出発した。

出発する参加者たち

 途中、市電が通っている道路を横断したりして、天祐寺に向かった。

市電の線路

 天気も良く、気温もそんなに高くなく、爽やかな風も吹いていて、散歩日和と言う感じ。予定どおり20分位で天祐寺に到着した。

天祐寺入り口


入り口の看板?建物がかなりボロい印象

 天祐寺は1850年(嘉永3年)、福島県相馬から来た僧が大聖歓喜天(象の頭に人間の体の神様)を祀ったのが始まりだそうだ。
 1934年(昭和9年)の大火で焼けてしまい、1936年(昭和11年)、紀州徳川家の庫裡(くり)を東京から移して建てられた。
 庫裡(くり)というのは、台所のある建物の事らしく、言ってみればお坊さんが生活する場所の建物のようだ。

 祭神の大聖歓喜天(読み方わからない。ダイショウカンギテン?)とはもともとはヒンドゥー教のガネーシャという神様で、3最高神の一柱であるシヴァ神が父親らしい。ちなみにヒンドゥー教の3最高神はプラフマー(創造神)、ヴィシュヌ(維持神)、シヴァ(破壊神)である。

 破壊神???

 なんで破壊するのが神様よ!?破壊するなら鬼か悪魔なんじゃないの??と疑問が起こる。

 しかし、シヴァ神は元々ルドラという神様が前身で、ルドラは暴風雨神である。暴風雨は壊滅的な風水害をもたらすが、土地に水をもたらし植物を育てるという、災いと恩恵の2面性を持つということで、シヴァ神は世界の寿命が尽きた時、世界全体を破壊して新しく次の世界を創造するために備えている神様だということだ。

 なるほど。

ここに天祐寺の祭神、大聖歓喜天があるというのだが、どこだかわからなかった


天祐寺のお坊さんが生活する部分(庫裡)

 で、ここで祀られている七福神は布袋尊だ。

 布袋尊は七福神の中で唯一実在していた事がわかっている人だ。中国の唐の時代にいた人で、本名は釈契此(しゃくかいし)という。常に袋を持って歩いていたので布袋(ほてい)という俗称が付いたらしい。
 太鼓腹で、色々な所を放浪して歩きながら施しを受け、そのいくらかを袋に入れていた。この袋は堪忍袋(かんにんぶくろ)と言う。聞いた事があるぞ、その袋の名前!

 916年に亡くなるのだが、その後、布袋の図像を描く風習が生まれた。布袋は禅僧だということになっているが、そうされたのは後世からで、当時の記録では僧であったという記載はどこにもないそうだ。ということは、今でいう物乞いなのか??
 
 なにはともあれ、今では日本の七福神の一柱であるわけで、不老長寿、開運、良縁、子宝、夫婦円満、金運の神になっている。

布袋尊

 天祐寺を後にして、まちづくりセンターでひと休み。次は高田屋恵比須神社に向かった。

 函館の歴史には必ず登場する高田屋嘉兵衛だが、彼と弟の金兵衛は神仏への信仰がとても厚く、この神社の恵比寿様も屋敷に祀られていた守護神のひとつである。

 この神社の隣には高田屋嘉兵衛の子孫が運営していた資料館があったらしいのだが、色々な問題から今はやっていない。で、この神社も資料館で管理していたらしいのだが、今は誰が管理しているのかもよくわからない状態で、この恵比須神社の中の恵比寿様は見ることが出来ない。見ることが出来ないどころか、本当に今でも恵比須様が安置されているのかどうかすら分からない状態だそうだ。

 あるかどうかもわからない恵比須様を見に来た参加者達。(自分もそうだけど)
 あってほしいな恵比須様。

高田屋恵比須神社

 この恵比須神社に祭られているかもしれないという恵比寿様だが、これは七福神の中で唯一日本が由来の神様である。

 先ほど、住三吉神社の所でも登場したイザナギノミコトとイザナミノミコト。この子供の中に蛯子神(ひるこのみこと)というのがいる。恵比須はこの蛯子神か大国主命の子供である事代主神(ことしろぬしかみ)だと言われている。一体どっちなんだ!?

 3歳になっても自力で立つことが出来ず、葦の船で海に流された。その後、大漁をもたらす恵比須として戻ってきたという話のようだ。

 古くは大漁・追福の神、漂着の神であったが、時代の流れと共に商売繁盛、五穀豊穣をもたらす神になったそうだ。時代の流れで御利益が変わって行っていいもんなんだろうか??

 釣竿を持ち、鯛を抱えた福々しい姿で有名だが、耳が遠いらしく、拝むときには鐘を大きく鳴らしたりして恵比須様に気づいてもらわなければダメらしい。

高田屋恵比須神社から函館山の方に八幡坂を歩き、更に日和坂を歩いて行くと、次の船魂神社がある。

船魂神社

 この神社は1135年良忍上人と言う人が海上安全を祈念したのが起源で、北海道最古の神社と言われている。

 江戸時代末期には船魂大明神と言われていたが、明治時代末期の1907年(明治40年)の大火で焼失し、神体を函館八幡宮に移すのだが、1932年(昭和7年)に現在地に本殿が建てられた。更に1962年(昭和37年)に改修されたものらしい。
 この神社の祭神は

 大綿津見神(おおわたつみのみこと)
 イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に生まれた八番目の子で、海をつかさどる神である。「ふなだまさん」という愛称で呼ばれる御神徳で、船の守護神である。
 船だけでなく、港湾作業員などの安全を願ってお参りに来る人も多く、また、大漁祈願、交通安全、開運厄除、安産、学業成就、病気など、かなりたくさんの御利益があるそうだ。また、塩土老翁神(しおつちおじのかみ)という、潮流を司る神様も祀られている。

 そして有名なのは義経伝説だ。

 岩手で死んだとされる源義経だが、実は生きていて北海道に渡ったという伝説である。

 津軽海峡を渡るときに大荒れになって船が沈みかけた時に神様が現れて助けてくれた。無事に北海道にたどり着いたのだが、喉が渇き水を探していると、童が現れて岩の方を指差した。そしたらそこには水が湧き出ていたという伝説。
 義経の乗る船を神様が助けてくれたという伝説ならまだいいが、喉が渇いた時に童が現れて指をさす方の岩から水が出ていたって・・・。単に子供が水の場所を教えてくれただけでしょ?これも伝説??って思うが、その岩だというものもここにはあった。義経の顔がくりぬかれた写真を撮るやつが置いてあったので、対馬先生に撮影してもらった。

義経です!


童岩

 この神社の七福神は福禄寿だ。住三吉神社の寿老人と同一ともされる神様だ。

 福禄寿も寿老人と同じく中国の道教が起源である。道教で強く希求される3つの願いと言うのがあり、それが「福」「禄」「寿」である。

 「福」とは幸福の事だが、現代の意味合いとは少し違って、実の子に恵まれるという幸福である。

 「禄」とは財産と良い身分が得られるということ、

 「寿」とは健康で長生きできるという事。

 である。これをかなえてくれるのが福禄寿である。

 背が低く、長い頭に長い髭。巻物を結んだ杖。寿老人は牡鹿だけど、福禄寿は鶴を伴っている。長寿のシンボルで年齢は数千歳と言われ、人徳の神様でもある。

福禄寿

 対馬先生は「トイレに行きたい」と言い出し、トイレ探しの旅に出た。

船魂神社からトイレ探しの旅に出る対馬先生

 船魂神社からはなかなか綺麗な景色を眺めることもできる。

船魂神社からの景色

 船魂神社から次の実行寺へ向かう。ここはあまり坂道もなく、船魂神社から元町公園の方に歩いて行く。

実行寺に向かう参加者達
ちなみに画像下のほうに白い帽子をかぶって紺色の服を着ている人は私の母である

 実行寺に到着。この寺は函館の歴史にはなくてはならない寺で、1655年(明暦元年)に清寛という僧が現在の弥生町に草庵(寺と言うよりもっと小さい規模のもの)を作ったのが始まりと言われる。

 1690年(元禄3年)に松前の日蓮宗法華寺の末寺(子分というか、子会社的な感じ)となった。

 1854年(安政元年)にペリー一行が箱館に来た時、写真班の宿舎として使用された歴史や、
 1855年(安政2年)には、フランス、シビル号の疾病水兵の養生所として使用された。この時、フランスとは和親条約を結んでおらず、本来ならフランスの人は上陸させられなかったはずだが、人道的な観点から当時の箱館奉行が独断で上陸を許したそうだ。
 その感謝として、武田斐三郎(たけだあやさぶろう)はフランスの船、コンスタンティーン号に乗船し、星形城郭の設計図のようなものを見せてもらった。それを元にして作られたのが五稜郭である。なので、この人道的な処置が無ければ五稜郭と言うものは存在しなかったかもしれない。

 そういう歴史もあり、ここには日仏親善函館発祥記念碑というのもある。

 1858年(明治5年)にはロシア領事館として使用された歴史もある。

清寛

 1869年(明治2年)には箱館戦争で、新政府軍の総攻撃があり旧幕府軍は降伏するという出来事があったのだが、この戦いで死んだ旧幕府軍の遺体は弔ってはいけないというお達しが出たので、遺体はそこらへんにゴロゴロ放置されていた。そこをお達しを無視して柳川熊吉と言う人と、当時の住職である松尾日隆が遺体を持ち帰り埋葬したという歴史もある。

 1879年(明治12年)の大火で被災し、1881年(明治14年)に現在地に移されたが1896年(明治29年)、1907年(明治40年)の大火でも被災し、現在の本堂は1918年(大正7年)のものである。

 ここの七福神は大黒天だ。

大黒天。黒くてよくわからない・・・

 大黒天は元々はインドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラの事である。この名前のマハーの意味が「大、または偉大なる」で、カーラの意味が「黒、または暗黒」であるので、大黒天と言われるようになった。

 本来は青黒い身体に憤怒の相であり、見た目は怖いようだ。戦闘、財福、冥府(死後に行く世界)という3つの性格を持っていたのだが、中国に伝わる過程で財福という面が強調して伝わったのがそのまま日本にも伝わったのだ。なので、インドでは怖い顔でも日本では優しい顔になっている。

 住三吉神社の寿老人の解説で、大国主命は大黒天の事だと書いたとおり、大黒天と大国主命が同一視されて神仏習合した神道の神で、福の神と言うイメージになった。

 昔、インドの寺院の台所の柱に金の袋を持って立つ小柄な大黒天が祀られていて、台所の神様でもある。

 また、大黒天は米俵に乗っている。これは「毎日ご飯を供えてお参りすれば、一生、食に不自由はさせない」というお告げがあった話が残されており、米俵と結びついたのだ。

さて、次は実行寺の隣にある称名寺だ。 

称名寺

 称名寺は1644年(正保元年)に円龍という伊勢の国の僧が亀田村に阿弥陀庵を建てたのが始まりと言われている。
 函館では高龍寺(1633年)についで古い寺院と言われる。

 開港時には英仏の領事館として使われたり、箱館戦争時には新選組残党の屯所としても使われた。

 1879年(明治12年)の大火で焼失し、1881年(明治14年)に現在地へ移転、その後の大火でも被災し、1929年(昭和4年)に現在の鉄筋コンクリート造りの寺院が完成した。

 1400年代中ごろにこの地に来て牛耳った河野政道の供養碑、高田屋嘉兵衛顕彰碑、土方歳三と新撰組隊士の供養碑、福士成豊(日本初の気象観測所を函館に作った人で、新島襄の海外渡航の手助けをした人)の墓、北海道で和人が生活していたという最古の記録と言われる貞治の碑(北海道指定有形文化財)などがあり、本尊の阿弥陀如来も函館市の有形文化財である。

高田屋嘉兵衛顕彰碑


貞治の碑
石に貞治6年2月と掘られていて、それは1367年の事である

 貞治の碑は石に貞治6年2月と掘られていて、それは1367年の事である。これは1752年に榊伝四郎と言う人が井戸を掘っていた際に発見したもので、北海道における和人の生活を裏付けるものとしては最古のものだという。

 さて、ここに祀られている四天王は毘沙門天である。自分は七福神を調べた時に、毘沙門天を調べたのが一番楽しかった。

毘沙門天(一番左側)

 毘沙門天はインドの神様ヴァウシュラヴァバの事である。ヒンドゥー教では財宝神であったが、中国に伝わる過程で武神、守護神となる。

 仏教ではバラモン教やヒンドゥー教の神様を取り入れることが多く、毘沙門天もその一柱。仏教にとりいれられた神様は仏法及び仏教徒を守護するという天部の神様になり、それを護法善神という。

 仏教の考え方の中には六道というのがある。迷いのある六つの世界だ。それは天上道(天道)、人間道、修羅道(これは大乗仏教のみで出てくる道)、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つ。

 天上道は天人が住まう世界で、寿命が長く苦しみもほとんどない世界。空を飛べたりもするのだが、煩悩が解き放たれておらず、また仏教に出会う事もない世界のため解脱することもない。神様たちが住んでいる。

 人間道は人間が住む世界。四苦八苦に悩まされる苦しみの多い世界だが、苦しみだけではなく楽しみもある。唯一自力で仏教に出会える世界で、解脱して仏になりえる。
 ※四苦八苦とはよく聞く言葉だが、単に苦しみという事ではなく、思うようにならないという意味で、生・老・病・死の四苦に

・愛別離苦(あいべつりく)〜愛するものと別れなければならない事
・怨憎会苦(おんぞうえく)〜恨んでいる者に会わなければならない事
・求不得苦(ぐふとくく)〜欲しいものが得られない事
・五蘊盛苦(ごうんじょうく)〜人間の体と精神が思い通りにならない事

 という四苦を合わせて四苦八苦である。

 修羅道は阿修羅の住む世界で、終始争いや戦いがある。苦しみや怒りが絶えないが、地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結する。

 畜生道は、牛馬などの畜生の世界。本能ばかりで生きており、使役されるがままなので自力で仏の教えを得ることのできない状態で、救いの少ない世界。

 餓鬼道は餓鬼(腹が膨れた鬼)の世界で、食べ物を口に入れようとすると火になってしまい、飢えと渇きに悩まされている。他人の事をよく考えてあげなかったために餓鬼になった例があると言われる。

 地獄道は罪を償わせるための世界。罪の重さによって服役する場所が決まっており、服役を終えたら輪廻転生によってふたたび生まれ変わる。

 という六道である。

 人は生まれ変わるとき、前世の行いによって、この六道のどれかに生まれ変わる(輪廻転生)と言われているのだが、これは実際にこの六道と言う世界が存在するというわけではなく、自分自身の中にこの六道があって、自分の精神状態により、どこかの世界にいるという考えかたでもあるようである。ちょっと難しい。
 自分自身で考えると、やっぱり人間道にいるのかなと思ってしまう。
 楽しい事もあるけど、色々な四苦八苦も思い当たる・・・。

 毘沙門天が住んでいる天道という世界の中心には須弥山(しゅみせん)という途方もなく高い山があり、その頂上に帝釈天(たいしゃくてん)が住んでいて、その須弥山の中腹には各方位を守る四天王がいる。
 よく聞く四天王という言葉はここから来ている。
 四天王は持国天(じこくてん)、増長天(ぞうちょうてん)、広目天(こうもくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)であり、毘沙門天は須弥山の中腹の北方世界を守護している。3つの城を持っており、他の四天王より強い。
 夜叉や羅刹といった鬼神を従え、左手に宝塔、右手に鉾または宝棒を持っていて、足元には2つの邪鬼(天邪鬼)を踏んづけている。

 中国に伝わる過程で戦いの神になったと書いたが、上杉謙信は自分を毘沙門天の生まれ変わりだと信じており、戦の時に毘沙門天の毘と書かれた旗などを持っていたのは有名な話である。

 四天王の一人として登場するとき、毘沙門天は別名の多聞天と呼ばれる。多聞天とは、仏が説法する道場に必ずいて、常に説法を聴いていたという事から名づけられた名前である。

毘沙門天

 そしていよいよ最後の神社、厳島神社に向かった。

厳島神社

 厳島神社は、以前は弁天社と呼ばれており、1871年(明治4年)に市杵島(いちきしま)神社と改め、1902年(明治35年)に厳島神社と改称された。

 幕末時代の1866年(慶応2年)に現在地に移った。

 現在の建物は1907年(明治40年)の大火後、大正時代に建てられた。

 函館の古い地図によると、以前は神社の前が海であり、海上の安全を祈願して海の方向に向かって建てられていた。

 北前船などの乗組員たちが海上の安全などを祈願し、手水石鉢や鳥居、方位石などを奉納したものが残っている。

 祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)であり、有名な広島県、安芸の宮島の祭神と同じである。

 市杵島姫命はアマテラスにスサノオが天真名井(あまのまない)(天界の素晴らしい井戸で、神秘的な霊力がある)で行った誓約の祭に、スサノオの剣から生まれた三女の神の一柱で、道をつかさどる神のため、海上安全や交通安全、芸事などの道の上達などの御利益があると言われる。
 市杵島姫命=弁天様と言われ、歌舞音曲や、水の守護神でもある。

 そんな関係で、ここの七福神は弁天様(弁財天)である。

 元々はヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが仏教、神道に取り込まれたもので、七福神の中で唯一の女性であり、芸能の才能、福徳財産、航海安全、知恵を授ける神である。

 さてさて、どんな御神体が祀られているのかと思ったら・・・。

弁財天

 なんだこりゃ!?由紀さおりみたいな人形じゃんか!!なんか、これまで見てきた七福神と雰囲気が全然違って、ご利益がなさそうな感じ・・・。でもけっこう昔の大正時代に作られたものだと誰かが言っていた。

恵比寿様も置かれていた


方位石
海上安全を願って1854年に奉納されたものらしい


手水石鉢
1823年に寄進されたものらしい


道租神

 上の変な石像、道租神(どうそしん)と言う。これは昔、町の変わり目や四つ角などに、災いが来ないように建てられたもので、30年以上前に日吉町で家を建てるという人が工事で地面を掘ったら地中から出てきたものだという。
 この像は男女を現していて、安産や縁結びの神様として祀っている。

 ここで今回の七福神めぐりは終了となった。行程約5.5km。最初長くて疲れるかなと思ったが、ゆっくり歩いたせいもあってか、全く疲れなかった。途中リタイヤした人もいなかったと思う。

 みんなで七福神を巡り、まずまず楽しかった。

 妻に迎えに来てもらい、対馬先生も乗せて、対馬先生の車が置いてある谷地頭に向かった。

 対馬先生は同級生のお友達の家の前に車を置いてあったのだが、この同級生の人がヨモギ餅?をくれた。妻と母が食べて、「これは本物だ!」ととても感動していた。

 母も体力がまだ余っていたので、函館山に行こうという事になり、車で行けるギリギリの時間だったが山頂まで車で行った。

 函館山は夜景が有名だけど、明るい時間帯に見る景色もとても綺麗である。

 市街地方向の反対側には本州(青森)がくっきり見えていた。

青森方面


今回の出発地である住三吉神社がある方向


函館の市街地


函館山山頂から見た駒ケ岳(1131m)


奥には恵山、手前には着陸前の飛行機


横津方面の山々
尾根がお椀みたいになっている部分の右側が函館市最高峰の袴腰岳(1108m)
左側が烏帽子岳
画面左端の高い部分が渡島半島最高峰の横津岳(1167m)

山頂のソフト

 函館山の山頂に来た目的の一つは、ソフトクリームを食べる事だった。このソフト、500円もする!
 とっても値段が高く、たいていの人は食べないと思うが、このソフト、素晴らしく美味しいのだ。まるで練乳をソフトクリームにしたかのようなミルキーで甘くて最高!

 5.5km歩いてそれなりにカロリー消費もしたと思うが、これひとつで消費した分のカロリー以上に取り戻してしまったと思う。でも凄く美味しいから許しちゃう。

 5時近くになり、山頂の放送で、「自家用車で来ている人は降りてください」みたいな事を言われたので、言う事を聞いて下山し自宅に帰った。